群青だより

10年、20年先の子どもたちの未来のために

公立でもまだまだできることがある

 

普段使われていない、普通教室よりも広い教室。

PTAの会議をする部屋として使われているけれど、会議は数ヶ月に一回。

 

よし、ここで授業をしちゃえ〜

って事で今週からここで授業をすることに。

 

 

広いのでゆったりとスペースを使える。

長机が新しく、足がローラーなので自由に移動できる。

 

窓が沢山あって換気もしやすい。

(天気が良ければ屋上とかでもやれそうだよなぁ。)

 

昔使われていた備え付けの石油ストーブ。石油を入れればバッチリ稼働。

 

そして子どもたちのタブレットWi-Fiもしっかり届く。

でも使える環境があることが大事なのであって、ねばならないわけではない。

タブレットを使っているのは半分くらいかな?ずーっと使い続けている子って意外と少ないのかも。シェアして使っていたり、使っている子の説明を聞いたり、教科書にしてもデジタルでなくあえて紙の教科書を使っている子がいたり(理由を聞いてみると紙の方が感覚的にページを開きやすいんだとか)、お気に入りの歴史辞典を家から持ってきている子がいたり、本当に色々。

 

時間と空間をゆったりと子どもたちがうまく使って学びを進める。自分のペースで、自分の使いたいツールを選びながら。

 

教師としての僕は教える存在としてではなく、それらのいろんなツールの中の1つである。そんなふうに子どもたちは思い始めている。

 

かな?

 

安易に聞いてこない。でも「聞いてはいけない」でもない。聞くべきことをそのままにしないで聞きに来る。

 

何気ないやりとりの中で少しずつそんな間合いができているような気がする。そんな程良い距離感がなんとも嬉しいのである。

 

学校でも家でもできるシームレスな学び。

いろいろ考えてコロナ禍での子どもたちの学びを保証するのに一番いいのでは?と思ってる。

 

個別化とゆるやかな協同に支えられた学び。

 

そしてもう一つ。何気なく見ていたら周りから学年随一の秀才と思われているような子と勉強がとっても苦手で教室にとどまっていられなかった子が、近くでそれぞれの学習をしながら、学習をとは違う何気ない雑談をしていて。

 

僕たちにはわからないいろんなチャンネルをきっと子どもたちは持っていてそれが通じ合っている瞬間を見たような気がして、なんだか不思議な、でもとても嬉しい気持ちになった。

 

勉強ができるとかできないという括りはあくまで大人の決めた線引きであって、子ども同士の関係の中にはあまり関係のないことなのかもしれないなぁ。