群青だより

10年、20年先の子どもたちの未来のために

瓦解

公教育で教師として働き続ける意味を考えてきました。

ここ1、2年の間で、公立学校の教師を辞め、私立の新しい学校を作ったり、起業して個人事業主になった方が多くいました。



そういった方たちから、たくさんの影響を受け、自分もこんなふうになんていう憧れを抱いていたので、すごいなあという思いと同時に、さみしさもありました。

そういった中、悶々と公立の中学校の教師として働き続けることの意義について考えてきました。



学級担任、教科担任として生徒と関わることはとても楽しいし充実しています。しかし私たちの仕事の本質は、生徒が目の前にいる今が良ければよいというものではなく、生徒が卒業したあとの、10年20年先の人生の幸せを作ることなので、その本質を見失ってはいけないと思うのです。そして日々の学校生活に埋没して一喜一憂する中で、気づかぬうちに社会から取り残されてしまうようのではないかという恐怖心を抱きます。



生徒によく「多様な人との関わりの中で折り合いをつけ、問題を解決すること」を語ります。しかし、自分自身が多様な人と関わることができていないのではないかと感じます。



今年度から上越教育大学の西川純先生が開いているのオンラインゼミに参加しているのは、学びたいということに加え、自分のつながりの幅を広げたいという気持ちもがあったからです。先日はオンラインゼミのメンバーに加えて、西川研究室のメンバーも参加されていました。



そんなオンラインゼミの中で、ある先生の質問にとても考えさせられました。それは「工業化社会の考えが根付いてしまった自分たちに、公教育を変えることは可能かなのか」というものでした。



それに対して西川先生は

イノベーションのジレンマ


キャズム2

を参照にと言われました。そしてこのような話をされました。


イノベーションが起こる時というのは、既存の市場占有者の中では改革は起こらない。一教師が既存の公立学校の中にいて、脱工業化社会になったといって、それで脱工業化社会にシフトするイノベーションが生まれるかといったらそれは生まれない。圧倒的大多数につぶされるからだ。現在の教育の市場占有者である公教育内部ではイノベーションは起こらないのだ。ではどうしたら変わるか。N高等学校などの広域通通信制の学校や、フリースクール、など、今の学習指導要領の縛りの外にあるものがだんだん拡大していって、既存の教育を圧迫することである。



実際に中学3年生の進路を考えると公立普通科へ進学する生徒は減少傾向にあり、専門学科のあるジョブ型の高校や独自性のある私立の学校への進学が増えていると感じます。また、私立高校の付属校やオルタナティブの学校が増えています。こういった流れが加速していったときに、既存の公立学校はこれではまずいと必死になり、それでも瓦解してった時に、つぶれる教師を減らすこと、そしてソフトランディングするために、その内部に脱工業社会はどういう社会でどういう教育があるのかということがわかる人が一定数いることが重要なのだそうです。



この話を聞いて、公立で教師を続ける意義もとても大きなものに思えました。そして多様な人間がいていいしそれぞれの道があっていいのだと思います。