群青だより

10年、20年先の子どもたちの未来のために

じわじわと

『学び合い』はその日やったからといって、すぐに変化があるわけではないし、急激に大きな成長が望めるものでもない。一日一日の授業を一年間積み重ねる中で、日々失敗と成功のトライ&エラーを膨大に積み重ねる中で、じわじわと集団の空気が醸成されていくのである。

 

特に最後の一人、二人を本当の意味でクラスの中に取り込むことができるのは本当に最後の1,2か月なのだと思う。もしかしたら1年経って取り込むことができないかもしれない。

 

しかし、あきらめずに取り込もうとする気持ちを持ち続ける集団であり続けることが大事なのである。

 

しかしそれは、上から目線の「取り込んでやろう」「仲良くしてあげよう」というようなものではなく、不思議なほどフラットに、おそらく生徒同士の意志と学びの文脈の中で自然発生的につながれるようなもののような気がする。

 

教師はそのつながりに直接介入していくことはない。『学び合い』は、一人一人の人間関係が如実に表れる分、苦しい場面もある。特に孤立傾向にある子や自分の意志で一人を選択する子のことを見ると、放っておいてよいのだろうかというマインドに陥るものだ。

 

しかし語るべきことを集団に語り、じっと耐え、一年間その様子を見守りながら待ち続けるのである。これは本当に孤独である。

 

だが、集団が有機的なればなるほど、誰と誰が一緒でというような教師の一方的な関係図とは異なる、多様なつながりが網のように広がっていき、その場その場でくっつく人が絶えず変化するような極めて流動性の高い集団が生まれるのである。

 

そして、そういった流動性の中で、孤立していた生徒や一人を自分の意志で選択していた生徒が自然な生徒同士の意志と学びの文脈の中でつながる体験をした時、その子自身が変わり、それを実感した集団も変わるといった相乗効果が生まれるのかもしれない。

 

ゆるやかなつながりを土台とした『学び合い』集団はあとからじわじわと成長していく後伸び集団なのである。