群青だより

10年、20年先の子どもたちの未来のために

セオリー

帰宅したらAmazonで予約していた本が届いていた。

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普段のゼミ(https://bit.ly/3lMsgHn)の話を思い浮かべながらじっくり読もう。

 

これはきっとハウツー本ではない。

know-howでなはくknow-whyの本であるのだ。

だから目の前の生徒と読み進めたい本でもある。

 

一部の人間に語るのではなく集団に語ることを、これまで通り大事にしたい。決して全員に伝えようとは思わない。でも心を込めて語れば伝わる人間には必ず伝わる。

目の前の姿から何を感じ何を語るか

教科担当や副担がそのクラスの担任に気を使い、そのクラスの子どもたちに言うべきことを言えない(言わない)ことがあったりする。

 

確かに担任を立てることは大事なことだ。

普段を見ていない人間が何でもかんでも言うもんじゃないのかもしれない。

 

しかし、言わなければならないことは、どんな状況であれ言わねばならぬのだ。それは担任を悪く言うとかそういうことじゃなくて、1人の教師として妥協してはいけないことがあるということ。

 

つまりそれは教師にしか語れないことがあるということ。

 

その時、どうする?

 

そんなその時、その時を決して見過ごさず、やり過ごさず、そして逃さないために、教師は、いるべき時いるべき場所にいて、語るべき時に語るべきことを語らなければならないのだ。

 

 

デジタルテスト

これまで自分は、中学校の定期テストは紙で印刷して行ってきました。

 

が、今回初めてMicrosoft formsを活用します。テストの観点は知識・技能と思考力・判断力・表現力の2観点ですが今回は知識・技能の60点分をデジタルで行い40点分は紙に記述させる方法をとります。

 

これまで作成してきたテストは写真やグラフなどの資料を多く使うため10〜12ページほどなっていました。テスト作成と手順とすると、問題と解答用紙の作成→印刷→折り機で織る→重ねて冊子にするという膨大な作業を行ってきました。公立入試に近いものを作りたいと思ってやってきたので、どうしても時間がかかってしまい、それも致し方ないと思ってやってきました。

 

今回60点分をデジタルにしたことで圧倒的に作成から完成までの時間が短縮されました。

 

そしてなによりも時間がかかるのが丸つけ作業。これまで丁寧にやろうとするとどうしても1クラス3時間、これを5クラスという膨大な時間をかけて返却してきました。

 

がデジタルにしたことで、生徒が解答を送信した瞬間に丸つけが自動的に終了します。今回は記述は自分で採点をしますがそれでもかなりの時間が短縮されます。

 

しかしながら、入試が紙である以上今後のテストをまるっきりデジタルにすることはリスクがあります。

 

また定期テストは特別なものでそういった環境の中で身につくものはやはりある(オンラインゼミにて西川純先生より)ので、紙のテストであることの良さはやはりあるのですが、それでも作成と返却にかかる膨大な時間を考えると、デジタルを取り入れていくこともありなのではと思うのです。

 

今後もテストのあり方を模索していきたいと思います。

メモ

※西川純先生の過去のFacebookの投稿からそのまま引用

 

ある国の話です。
 その国には人民議会があります。しかし、議事進行に関して、○○党が事前にチェックしています。その党の役員が人民会議に参加し、人民会議議長に指導・助言をします。大きな議題は党会議で審議され、そこで認められた時に人民会議の議題となります。党会議で認められない場合は人民会議の議題にもなりません。国民は、なんやかやいっても党会議が動かしていることを知っています。
 その国で政変があり、西欧型民主主義になりました。ところが、国民は自らが本当に決定に関われるという経験をしたことがありません。そのため、政治参加の意識が低い。人民会議の時は投票したか否かを党の役員がチェックしていたので全員が投票しましたが、そのチェックがなくなりました。そのため、安心して投票しません。
 
 さて、この国の投票率が上がるには何年かかると思いますか?
 
 数年、いや、意識改革には十年ぐらいは必要だと思いませんか?
 
 では、文章をちょこっと変えてみましょう。
 
 学校の話です。
 学校には生徒会があります。しかし、議事進行に関して、職員会議が事前にチェックしています。その生徒会担当の教員が生徒会に参加し、生徒会長に指導・助言を受けています。大きな議題は職員会議で審議され、そこで認められた時に生徒会の議題となります。職員会議で認められない場合は生徒会の議題にもなりません。生徒は、なんやかやいっても職員議が動かしていることを知っています。
 生徒は18歳になりました。ところが、自分たちが本当に決定に関われるという経験をしたことがありません。そのため、政治参加の意識が低い。生徒会の時は投票したか否かを教職員がチェックしていたので全員が投票しましたが、そのチェックがなくなりました。そのため、安心して投票しません。
 
 さて、子どもの達の意識を変えるために十年ぐらいは必要としたとしたら、いったい何歳から子ども達に本当の意志決定をさせればいいでしょうか?
 世の中には、事細かな校則があります。中には教師自身もその正当性を説明できないものもあるでしょう。そして、その校則を変える権限を生徒会は持っていません。学校側の言い分もあります。しかし、それと同じことを日本の国会議員が一言でも言ったら、どう思いますか?例えば、「国民は詳しいことは分からない」、「国民はこのことを判断する能力が無い」、「国民は権利を使いこなせない」と国会議員が言ったらどうでしょうか?
 
 教育基本法第1条には平和的な国家及び社会の形成者を育成しなければならないと書いています。若者の投票率が低いならば、その責任は学校にあります。
 もちろん、子どもに全部任せろとは言いません。教師だって法律に縛られています。しかし、そうでないところはかなりあります。もし子どもに任せられないとしたら、それは子どもの能力の問題ではなく、教師の能力の問題です。
 たしかに任せられない子どももいます。しかし、大人並みに物事を考えられる小学生もいます。そして、多くの子どもは大人並みに考えられる子どもの判断の方が、任せられない子どもの判断より妥当であることを判断出来ます。だから、集団が機能すればかなり任せることが出来るのです。
 学校が啓蒙的専制君主による国家であってはならないと私は思っています。
 その考えと、どのようにしたら自治的子ども集団が出来るかを、本にしました。「アクティブ・ラーニング時代の教室ルールづくり入門<子どもが主体となる理想のクラスづくり>」です。
 
 息子が18歳投票権に関して質問したので、以下のように応えました。
 
 『今の社会は年寄りが多い。そして、年寄りの方が投票に行く。国会議員は国民ではなく、投票者の意志に従うものだ。だから、年寄りの利害が通る。しかし、年寄りが若者の利害を圧迫する社会に未来はない。だから、若い人の票を増やそうとする人が国会議員の中にいるんじゃないかな~っとお父さんは思う。だから、選挙権を得たら絶対に投票に行きなさい。極論すれば白票であってもいい。若い人が投票したという事実が国を動かすんだから。』
 
 以上のことを応えたときに、先の人民会議の例が頭に浮かびました。

じわじわと

『学び合い』はその日やったからといって、すぐに変化があるわけではないし、急激に大きな成長が望めるものでもない。一日一日の授業を一年間積み重ねる中で、日々失敗と成功のトライ&エラーを膨大に積み重ねる中で、じわじわと集団の空気が醸成されていくのである。

 

特に最後の一人、二人を本当の意味でクラスの中に取り込むことができるのは本当に最後の1,2か月なのだと思う。もしかしたら1年経って取り込むことができないかもしれない。

 

しかし、あきらめずに取り込もうとする気持ちを持ち続ける集団であり続けることが大事なのである。

 

しかしそれは、上から目線の「取り込んでやろう」「仲良くしてあげよう」というようなものではなく、不思議なほどフラットに、おそらく生徒同士の意志と学びの文脈の中で自然発生的につながれるようなもののような気がする。

 

教師はそのつながりに直接介入していくことはない。『学び合い』は、一人一人の人間関係が如実に表れる分、苦しい場面もある。特に孤立傾向にある子や自分の意志で一人を選択する子のことを見ると、放っておいてよいのだろうかというマインドに陥るものだ。

 

しかし語るべきことを集団に語り、じっと耐え、一年間その様子を見守りながら待ち続けるのである。これは本当に孤独である。

 

だが、集団が有機的なればなるほど、誰と誰が一緒でというような教師の一方的な関係図とは異なる、多様なつながりが網のように広がっていき、その場その場でくっつく人が絶えず変化するような極めて流動性の高い集団が生まれるのである。

 

そして、そういった流動性の中で、孤立していた生徒や一人を自分の意志で選択していた生徒が自然な生徒同士の意志と学びの文脈の中でつながる体験をした時、その子自身が変わり、それを実感した集団も変わるといった相乗効果が生まれるのかもしれない。

 

ゆるやかなつながりを土台とした『学び合い』集団はあとからじわじわと成長していく後伸び集団なのである。

泥臭く作り上げたもの

子どもたちがゼロから考え作り上げてきたもの。でもそれが大人の想定を遥かに超えたりする。子ども集団は有能である。

 

でもそれは決して教師が放置放任してできるものではない。放って置いて自主性は育たない。ビジョンを示し、時間や場所などの環境を作り、そして語る。教師のあり方が問われる。