群青だより

10年、20年先の子どもたちの未来のために

授業について

生徒の学習が単なる無機質な知識の定着や高校受験のための学習では学ぶ意義や楽しさは得られない。あくまでも僕は中学3年間の社会科において【よりよい社会の担い手を育てる】授業を追究していきたい。そのうえで生徒の〈力〉を育みたい。以下①と②を融合した授業を模索している

①『学び合い』の授業を通して生徒の10、20年先の幸せを生徒と共に築くこと。


②中学校「社会科」の三年間の授業を通して【よりよい社会の創り手を育てる】こと。


この①と②の融合を模索しながら個別化と協同化の中でゆるやかなつながりを育むことで、生徒の〈力〉を育てていきたい。苫野氏の言う「相互承認の感度」を育むことを土台に、すべての子どもたちが〈自由〉になるための〈教養=力〉を育むことにつながると考えている。


そのうえで教師である自分自身の実践を日々省察する教師でなければならないと感じる。苫野氏は「教育の力」の中で次のように述べている。

まず、担当教科の知識体系に精通していることや、それを授業を通して伝える力、また子どもの成長の過程を見極める力といった、従来求められてきた専門的な知識・技能はやはり重要です。しかし、このある種、固定的な知識・技能に精通していれば、わたしたちにはどんな子どもにも全く同じ仕方で教科内容を習得させることができるかといえば、それはやはり困難です。教師はむしろ、一人ひとりの子どもに応じて、また状況に応じて、これら専門的な知識・技能を柔軟に編み変えていく、そのような「省察的実践家」であることが求められているのです。(苫野2014、189頁)


さらに本書ではドナルド・A・ショーン氏の言葉が続く。

省察的実践者としての教師は、生徒たちに耳を傾けようと試みる。〔中略〕教師はたとえば、生徒の間違いや困惑のありようについて時間をかけて検討することに関心を集中しようとする。なぜこの生徒は、「36+36=312」などと書くのだろうか。生徒のための新しい問や、生徒が取り組む新しい活動、そして生徒が足し算を学ぶのを援助する新しい方法を生み出してくに違いない。その場合、授業計画については固定的なものを退け、大まかな全体的な活動プラン、教師が特定の生徒たちの問題についての、その場その時点での理解に即した調整を可能とするような骨格案に変えなければならない。(ショーン2007、349)



教師はだれでも子どもだった。今教師として働いている者であれば、子ども時代、「自分だったらこんな風に授業をするのになあ」と考えた経験は少なからずあるのではないだろうか。そこまで具体的でなくても、授業の中で「こうしたいな」「こうやって学びたいな」みたいなマインドは誰しもがもっていたはずである。そういった思いを僕自身ここ数年忘れかけていたように思う。学習は教師のための学習ではない。生徒にとっての学習である。このことを忘れてしまったら教師としての成長も止まるのだと思う。目の前の子どもは教師の鏡なのである。